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明治とは?/ セントラルファイナンス

[ 296] 明治 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB

「聖人南面して天下を聴き、明に嚮いて治む」というこの言葉は、過去の改元の際に江戸時代だけで8回、計10回候補として勘案されているが、通算にして11度目にして採用された。同時に一世一元の詔も併せて出され、在位中の改元は行わないものとした。
前越前藩主松平慶永らが勘案した文面を籤としたものから、明治天皇自らが宮中賢所にて抽選したものだとされている。
明治天皇が即位、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指し、新たに江戸を東京と改め、天皇が東京に行幸してここを日本の新しい政治の中心にすえた(東京奠都を参照)。
尊皇思想に基づき、天皇は親政を行い人民を直接統治するとしたが、政治体制は大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されるまで、様々に変化した。中国明朝などに準じ一世一元制を定め天皇の謚号は元号とし、それまでの陰陽道的改元を廃止した。
慶応3年(1867年)徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜が、天皇に大政奉還したことを受け、朝廷は王政復古を宣言。これにより討幕派の薩摩藩や長州藩が中心となり明治新政府が成立した。大政奉還を受けて、翌年の1868年に年号を明治と改め、五箇条の御誓文によって、新しい政治方針を示した。
新政府は欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗するために、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指した。新政府は、1869年(明治2年)には各藩に版籍奉還を命令し、1871年(明治4年)には、廃藩置県を行った。地租改正によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。国民には、江戸時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃を行い四民平等とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由や、散髪帯刀の自由など様々なことを改革していった。
また、新政府は欧米列強の桎梏から脱出する為、富国強兵を国の重要政策とし、郵便制度の整備、鉄道の敷設、輸出産業の育成(一例が富岡製糸場)を行い(殖産興業)、1873年徴兵制を実施した(戸主は徴兵を免除されたので、主に戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担った為、血税一揆が起きた)。
征韓論をめぐって、強硬派の江藤新平・西郷隆盛・副島種臣・板垣退助・後藤象二郎の5人は大久保利通・岩倉具視らと対立し参議を辞任した(明治六年政変)。その結果、大久保利通の独裁体制が確立することとなった。
一方、下野した5人の参議は以下の行動を取った。西郷隆盛は故郷鹿児島に戻り、私学校を建設した。また、板垣、後藤、江藤、副島らは有司専制を批判するということで、1874年民選議院設立建白書を政府に提出、議会開設を主な要求とする自由民権運動の嚆矢となった。その後、江藤は故郷の佐賀に戻り、明治維新によって特権を失った不平士族をも巻き込んで佐賀の乱を起こしたが鎮圧された。
政権を掌握した大久保は、不平士族の不満を抑えることは困難であることを悟り、琉球漁民が台湾の地元民に殺害されたことを理由に、1874年、台湾出兵を行い(その結果、木戸孝允は下野した)、更に翌1875年江華島事件を引き起こし李氏朝鮮に日朝修好条規を締結させた。加えて、下野した木戸や自由民権運動を率いている板垣らを牽制、懐柔する為に1875年大阪会議を開催し、漸次立憲政体樹立の詔書を発布した。これにより、立法機関である元老院、司法機関である大審院、地方官会議を開催することを決めた。一方、讒謗律、新聞紙条例で言論規制を行った。
内政面では、大久保は1873年内務省を設置し、殖産興業を後押しした。また、明治政府の財政難の原因となる不労所得者である士族の特権(秩禄、賞典禄)を削減したり(秩禄処分)、廃刀令を出したりした。相次ぐ改革により不平士族は反発、佐賀の乱を皮切りに、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起き、最後に西郷隆盛が挙兵した(西南戦争)がいずれも政府により鎮圧された。西郷の死により、武力による政府転覆ではなく、言論による政府批判へと時代は変わっていく。
その後、1878年、大久保利通は暗殺され(紀尾井坂の変)、前年の西南戦争のさなかに木戸孝允も病没した為、明治新政府は、伊藤博文、大隈重信を中心に運営されることとなる。
自由民権運動の発展に対し、明治14年(1881年)、開拓使官有物払下げ事件に端を発した明治十四年の政変で、伊藤博文は即時国会開設を唱えていた急進派の大隈重信一派を政府から追放する一方、「国会開設の詔勅」を発し、明治23年に議会を開設することを国民に約束した。その結果、明治政府から追放されることとなった板垣退助は自由党を、大隈重信は立憲改進党を結成し、来る国会開設の準備を図ろうとした。
また、大隈重信失脚後、経済政策面で実権を掌握したのが薩摩藩出身の松方正義であった(詳細は松方デフレを参照)。松方デフレにより、農民層は貧困することになり、これに自由民権運動が連動、1884年秩父事件が発生した(自由民権運動の先鋭化)。
伊藤博文は、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、ロエスレルらと憲法制定の準備を開始し、1888年枢密院を設置した。そして、1889年(明治22年)、黒田清隆内閣の時、君主権が強いプロイセン憲法を模倣した大日本帝国憲法が明治天皇から臣下に授ける形で制定された(欽定憲法)。
この憲法に対する当時の評価は高く、国内では「聞きしにまさる良憲法」(高田早苗)などと民権派からの絶賛もあった。また欧米各国の識者からも、実際の運用能力への留保はありつつ、その内容に関しては高く評価された(具体例としてエルヴィン・フォン・ベルツが挙げられる)。
同憲法は、天皇は、第三条で神聖不可侵と規定され、第四条で統治権を総攬する元首と規定された。三権に関しては以下の通りである。第一に、立法権であるが天皇は第五条において帝国議会の協賛を以って立法権を行使すると規定された(つまり、帝国議会は天皇の協賛機関)。しかしその職務は概ね、法律を裁可することのみであり、またその裁可には国務大臣の副署が必要とされた。つまり、大臣副署がなければその法律は無効であり、さらに天皇が裁可を拒むことは形式上可能であっても、事実上は不可能であった。この点は現在のイギリス国王も同じといえる。また、帝国議会は選挙で選ばれる国会議員から成る衆議院と華族から成る貴族院の二院で構成された。第二に、行政権であるが、後の日本国憲法と異なり連帯責任ではなく、第五五条で各国務大臣は天皇を輔弼し、個別に責任を負うものであった。第三に司法権であるが、第五七条で天皇の名において法律により裁判所が司法権を行うものであった。
同憲法の問題は、主なものに以下の二つが挙げられる。第一は、第一一条に規定されている天皇は陸海軍を統帥するという規定であった。内閣や帝国議会は軍部に対し直接関与できなかった(これが、後の統帥権干犯問題を引き起こすこととなる)。第二は、第二一条で規定された法律の範囲内において自由であるという臣民の権利であった(後に治安維持法などで権利の制限を行うようになる)。
また、黒田清隆首相は「政党の動向に左右されず、超然として公正な施策を行おうとする政府の政治姿勢(超然主義)」を示し、議会と対立した。
その後も徐々に選挙権の制限条件を緩和していき、また政府と政党との対立も緩和されていった事もあって、明治時代末期から民主主義的な思想が民衆に広まりはじめ、大正デモクラシーへとつながって行く。
植民地化されずに自力で近代化への改革をなした日本は、1894年(明治27年)には英国と条約改正を成し遂げ、これを皮切りに江戸時代末期以来の不平等条約の解消を進めた。これを完全に達成したのは韓国併合以降である。
外相井上馨による交渉(1882-88年):鹿鳴館の建設による欧化政策、裁判所に外国人判事を採用など→ボアソナードや谷干城、国粋主義者の反発、ノルマントン号事件に対する不首尾もあり、井上辞任。
外相大隈重信による交渉(1888-89年):大審院にのみ外国人判事を採用することがロンドンタイムズ紙にリークされる→玄洋社の来島恒喜のテロに遭遇し、辞任。
日本は、1882年の壬午軍乱、1884年の甲申事変を契機に朝鮮を巡り、清と対立し、甲午農民戦争を契機に、明治27年(1894年)に日清戦争が勃発した。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて清の方が優位であったが日本は勝利し、下関条約によって以下の内容を清に認めさせた。
下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えた(李氏朝鮮は1897年大韓帝国として独立した)。しかし、遼東半島は露仏独の三国干渉により返還させられた(代償として3000万両を獲得)結果、国民に屈辱感を与え、報復心が煽られた(臥薪嘗胆)。
結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。他方、「眠れる獅子」と言われた清が敗戦したことから、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。加えて、日清戦争の賠償金を元手に、1897年の金本位制の源泉となったり、1901年八幡製鉄所が造営されたり、経済的にも影響を与えた。
日清戦争終了後、ロシア帝国は清に圧力をかけ、遼東半島の旅順、大連を租借した。また、シベリア鉄道及びその支線である東清鉄道を建設し南下政策を進めていった。とりわけ、義和団事件以降、ロシアは満州に軍隊を駐留させ、利権を確保していった。日本はロシアの動きを牽制すべく、1902年(明治35年)には、日英同盟を締結した。当時世界第一の大帝国で「栄光ある孤立」を貫いていた英国が初めて同盟を締結したということと、アジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは、極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾わせようとするものとする風刺も見られた。その後、満州、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に日露戦争が勃発した。
陸軍は遼東半島上陸後、旅順攻囲戦、奉天会戦と圧倒的物量で上回るロシア陸軍を辛うじて後退させることに成功した。一方、海軍は最終的には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した。
ロシアはなお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い、国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、外相小村寿太郎は米大統領セオドア・ルーズベルトに仲介を頼み、講和に持ち込んだ。日露戦争を終結させたポーツマス条約の内容は以下の通りである。
しかし賠償金は全く取れなかったため、日本国内では国民の怒りが爆発し、日比谷焼打事件が起こった。また堺利彦・片山潜らの反戦運動や与謝野晶子やキリスト教の立場からする内村鑑三の非戦論も唱えられた。
日露戦争における日本の勝利は、白色人種の大国に対する有色人種の小国の、また絶対主義国家に対する立憲君主国家の勝利であり、世界史上の意義も大きかった(ちなみにエチオピアのアドワの戦いの例もあり、白色人種国家に対する有色人種国家の近代初の勝利というわけではない)。
1905年、韓国統監府初代統監には伊藤博文が任命されたが、1908年に辞任した。また、1906年ポーツマス条約で獲得した遼東半島南部(関東州)及び長春以南の東清鉄道に対し、それぞれ関東都督府、南満州鉄道株式会社(満鉄)が設置された。その後、1909年7月、第2次桂内閣が韓国併合を閣議決定、10月26日、伊藤はロシアとの会談を行うため渡満し、ハルピンに到着した際、大韓帝国の独立運動家安重根に暗殺された。明治43年(1910年)には日韓併合条約を結び、大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もある。
その後第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、大正9年(1920年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになった。
※明治5年までは旧暦を使用していたため、西暦(グレゴリオ暦)の年とは厳密には一致しない。詳細は明治元年〜5年の各年の項目を参照。

 

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